江戸時代中期の「浮世絵」の黄金期を築き、2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』で主人公として登場する男の名は蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)。
大河ドラマでの出演も決まり、今最も注目を集めている1人でもあります。
今回は、蔦屋重三郎の生涯と彼がどんな功績を残してきたのか詳しく解説していきますね。
是非、最後まで読んで見て下さい。
\\この記事でわかること//
・蔦屋重三郎のエピソード
・蔦屋重三郎の家系図
蔦屋重三郎の基本データ
2025年大河ドラマの主人公だね
ジャンル | 江戸時代の出版者 |
出 身 | 江戸・吉原(東京都) |
墓 所 | 東京都台東区東浅草・誠向山正法寺 |
生年月日 | 1750年2月13日 |
没年月日 | 1797年5月31日 |
死 没 | 48歳 |
主に、江戸時代中期に活躍した人物です。
幼少期
- 1750年(寛延3年)に、新吉原で生まれる。
- 父は当時、遊郭に勤めていた丸山重助。
- 母は津与。順調に成長を遂げた蔦屋は吉原で書店を営む。
耕書堂創業
- 吉原細見(遊女の名前と人気を店ごとに記した情報の案内書)を卸し、小売りをする。
- 1776年(安永5年)には「吉原細見」の版権を譲られ、編纂、刊行すると、読みやすいと大評判となる。
- 1783年(天明3年)、一流のお店が建つ日本橋通油町に進出し「耕書堂」という書店を開き、創業者となります。
富の築き
- 絵本「狂歌本類」を出版するだけでなく、滝沢馬琴や十返舎一九などの新人作家を発掘・プロデュースすると、当時流行していた黄表紙(大人向けの漫画)や洒落本を出版し、大ヒットしたことで多額の富を築く。
寛政の改革
- 1787年(天明7年)江戸幕府老中の松平定信が「寛政の改革」を行います。
- 当時の幕府は財政難に苦しんでいたこともあり、庶民には質素倹約を促し、贅沢をしたり政治批判を行うものは厳しく取り締まられるようになる。
- 1790年(寛政2年)には「出版統制令」が発令されると、当時の洒落本が風紀を乱したとして、蔦屋は出版した罪として、財産半減の措置を受ける。
晩年
- 幕府の弾圧で、財産の半分を失いますが、再びプロデュースや企画を行い、1797年(寛政9年)に脚気の影響で死去(享年48)
今でいう、メディア王ね!
蔦屋重三郎が残した功績
詳しくみていきましょう
- 浮世絵の普及と発展の貢献
- 耕書堂の創業と文学の貢献
- 現在の出版業界への影響
・浮世絵の普及と発展の貢献
著名な浮世絵師である、喜多川歌麿や東洲斎写楽などの才能豊かな芸術家を発掘・支援し、彼らの作品をプロデュースします。歌麿の「美人画」や写楽の「役者絵」を送り出し、浮世絵が世の中に広がるきっかけを作り出しました。
もし彼が発掘をしていなかったら、世に浮世絵が広がるのも、発展を遂げるのも遅れていたと考えられます。
・耕書堂の創業と文学の貢献
黄表紙(大人向けの漫画)や洒落本を出版し文学を多くの人に届けるだけでなく、吉原細見(遊女の名前と人気を店ごとに記した情報の案内書)を改め「吉原再見」の版権を譲られ、編纂、刊行をすると大評判を受ける。
天明3年(1783年)には、一流のお店が建つ日本橋通油町に進出し「耕書堂」という書店の創業者となる。
彼の果たした文学での貢献は江戸の庶民文化をけん引したともいえる。
・現在の出版業界への影響
現代の日本で「TSUTAYA」と聞く書店やレンタルショップ、ゲーム機やビデオ販売を想像する人は多いのではないでしょうか。
その名称は、江戸のメディア王とも呼ばれる蔦屋重三郎の影響も少なからずあります。
現在の蔦屋書店は、蔦屋重三郎の子孫とは関係なく、創業者の増田宗明さんの祖父が営んでいた置屋(舞妓さんが生活する家)の屋号が、「蔦屋」だったことからと言われていますが、全く関係ないわけではなく、祖父の屋号は、「蔦屋重三郎」にあやかって名づけられたとも伝えられています。
そのことから、遠い江戸時代が現代にも影響を与えていることを感じることが出来ます。
今の「TUTAYA」はそういう由来だったのね!
蔦屋重三郎の家族構成は?
どんな家族構成だったの?
①生家
1750年(寛延3年)新吉原(現在の東京都江東区千束、遊郭があった場所)生まれ。
後に両親が離婚をし、吉原で茶屋(蔦屋)を営む喜多川家の養子となる。
そのため本名は、喜多川珂理(きたがわからまる)という。
②家族
父・丸山重助ー徳川御三家の筆頭・尾張徳川家の領地から江戸に移り、吉原で働いていました。
母・広瀬津与ー江戸の出身。重三郎が7歳の時に離婚する。
義理の兄・蔦屋治郎兵衛ー喜多川家には、重三郎の義理の兄になる治郎兵衛がいました。
治郎兵衛は、喜多川家の実子で、蔦屋の名を引き継ぎ、吉原で引手茶屋(遊郭で客を遊女屋へ案内)を営んでいたとされています。
③血筋
重三郎の実の父である、丸山重助は、御三家の筆頭・尾張徳川家出身です。
重三郎が養子となった、喜多川家についてですが江戸時代の吉原で茶屋を営む家系でした。
重三郎は、茶屋の屋号「蔦屋」の名を引き継いで「蔦屋重三郎」として知れ渡るようになります。
なるほど~!!蔦屋は養子先の屋号なのね
蔦屋重三郎の子孫と現在
自分の家庭はどんなだったのかな?
重三郎は結婚をし、仲睦まじく生涯を過ごしたと言われています。
妻・トヨー本屋の町娘で、重三郎が吉原で出版業を始め、成功を収めていく中で彼女が重要な存在でもありました。
トヨは、書物の出版や編纂をする重三郎の活動を理解し、共に支え合い、過ごしていったと言われています。
しかし、妻・トヨについての詳しい詳細は分からず、はっきりとした記録が残されていません。
大河ドラマ『へらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』で登場する時どのように描かれていくのか注目ですね。
妻との間に子どもがいたかどうかの、明確な記録はなく、子孫についての情報も明らかになっていません。
現時点ではまだまだ解明しきれていない謎が多いのが現状です。
現代の「TSUTAYA(蔦屋書店)」も蔦屋重三郎の子孫が経営している訳ではなく、蔦屋重三郎にちなんで名づけられています。
重三郎の跡継ぎには、実子ではなく、従業員であった勇助が引き継ぎました。
勇助は、蔦屋家の養子として2代目の「蔦屋重三郎」を襲名し、事業を拡大していきました。
蔦屋重三郎の死後も、変わらず「耕書堂」という名のもと、江戸時代から明治にかけて、出版業界での立ち位置を確立していきます。
奥さんの協力がありがたいですね
まとめ
蔦屋重三郎は、2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』で主人公として登場することで、今一番旬な歴史上の人物とも言う事が出来ます。
そんな彼は、江戸時代の商業と文化の発展に大きく貢献した人物です。
喜多川歌麿や東洲斎写楽といった芸術家を支援し、浮世絵の普及と発展に大きく貢献しました。
また、彼の開いた「耕書堂」は江戸時代の庶民文化の中心となり、文学の普及にも大きな影響を与えました。
彼の開いた「耕書堂」は江戸時代の庶民文化の中心となり、文学の普及にも大きな影響を与えました。現代にも影響を与え、特に「TSUTAYA(蔦屋書店)」の名前に彼の大きな存在を感じることができます。
今回は江戸時代の商業化と文化面で大きな影響を与え、その活躍から2025年度の大河ドラマで描かれることになった、蔦屋重三郎の功績や家族、エピソードなどをピックアップしました。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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