津田梅子:家系図・経歴と家族の物語!西郷隆盛とも親戚だった!

偉人の家系図

2024年7月に発行された新5000円札の顔となった、津田梅子

津田梅子は、女性の教育が重視されていなかった明治の初頭、日本で初めての女子留学生の一人として、アメリカに留学しました。

そして、帰国してからは、日本の女性が教養豊かになるよう、女子教育の充実に尽力し,

日本の女子教育の発展という、大きな功績を残しています。

そして、家系図をたどると西郷隆盛と親戚となることも判明しました。

 

このブログでは、新5000円札の顔となった、津田梅子の功績とそれの基盤を作った家族について、調べてみました!

五千円札を使う時に、梅ちゃんの功績を少し感じてみてくださいね!

ぜひ、最後まで読んでください!

\\この記事でわかること//

・津田梅子の功績
・津田梅子のエピソード
・津田梅子の家系図

津田梅子ってどんな人だったの?

ジャンル 日本の女子教育家家
出  身 江戸牛込南御徒町(現・東京都新宿区南町)
学  歴 ブリンマー大学(アメリカ)
生年月日 1864年12月31日
没年月日 1929年8月16日
死  没 64歳

幼少期

  • 江戸牛込南御徒町にあった、津田家の次女として生まれる。
    父親の仙は幕府に勤めていたが、明治になった時に、官職を辞め、「ホテル館」という洋風旅館に勤めるために、牛込南御徒町から向島へ移る。
  • その頃、浅草に踊りのけいこに通う。
    踊りの筋を師匠に認められるぐらい、踊り好きだった。

 

留学
  • 1871年10月、6歳の時に、開拓使による女子留学生のアメリカ派遣事業に、仙が梅子を応募させ、日本初の女子留学生の一人となる。
  • 1871年12月、岩倉使節団に随行し、横浜を出港、1872年2月ワシントンD.Cに到着、11年に及ぶ留学をする。
  • 1881年(16歳)に開拓使から帰国命令があったが、1年間の延長を申請し、1882年に帰国する。

帰国後

  • 帰国してから半年後の1883年6月(18歳)から6週間、海岸女学校で夏季休業中の英語教師として働く。
  • 1883年11月、伊藤博文と再会(岩倉使節団で同行)し、伊藤家の子どもたちの家庭教師と伊藤の通訳として、伊藤家に住み込みで働く。
  • 1885年(20歳)、華族女学校で英語教師となる。

 

再び留学
  • 1889年(24歳)、留学時代の友人が来日し、再留学を勧められる。
    留学中に交流のあった、モリス夫人がブリンマー大学のローズ学長に受け入れを要請し、授業料の免除と寄宿舎の無料提供を約束し、再留学をする
  • 1889年7月、再び渡米し、ブリンマー大学で生物学を専攻する。
  • 当初は2年間の予定だったが、1年間の延長を華族学校に願い出て認められ、3年間、蛙の発生に関して研究を続ける。
  • 1892年8月(27歳)に帰国し、再び華族女学校に勤める
  • その後、明治女学院講師、女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)教授を務める。
  • 1898年(33歳)、アメリカで開催された万国婦人連合大会に日本婦人代表として参加、その後、イギリスやパリを訪問する。

 

女子英学塾設立

  • 1900年9月(35歳)、東京市麹町区元園町に「女子英学塾」を創設する。
  • 発足後、塾の校舎の移転・新築を行い、1903年(38歳)に東京市麹町区五番町に校舎を建てる。
  • 1904年に塾は専門学校(旧制)の認可を受け、翌年には無試験による英語教員免許状の授与権を与えられる。
  • 女子英学校は、これまでの良妻賢母の女子教育とは違い、進歩的で自由なレベルの高い授業を行った。
  • 発足当初の学生は10名だったが、8年後には学生数150名に達した。

 

晩年

  • 1917年(52歳)、体調を崩して入院、2か月後に退院するも、その後も入退院を繰り返す。
  • 1919年(54歳)、塾長としての実質的な活動を終える。
  • 同年、北品川御殿山(現・東京都品川区御殿山)に住居が完成し、10年間過ごす。
  • 1928年11月(63歳)、勲五等・瑞宝章を授かる
  • 1929年7月(64歳)、鎌倉の別荘に移り住む
  • 1929年8月(64歳)、脳出血のため死去。満64歳。
  • 2024年7月、五千円紙幣の肖像画に採用される。

 

エピソード
  • 仙は当初、姉の琴子を応募させるつもりだったが、姉が拒否をし、その後に留学の話を聞いた梅子が、自ら行きたいと、自分の意思で答えた
  • 一緒にアメリカに留学したのは、6歳から14歳の少女5名
  • 11年間の留学で、ラテン語をはじめ、フランス語などの語学や英文学、自然科学、心理学、芸術、ピアノを学ぶ。
  • 5名の中には、帰国後に大学を卒業し、学士号を取得した最初の日本人女性で、後に元老(げんろう・天皇を補佐する役職)の大山巌の妻となった山川捨松や、ヴァッサー大学音楽科で西洋音楽とピアノを専攻し、日本最初のピアニストとして活躍した、永井繁子も一緒にアメリカへ渡っている。
  • 1882年11月に帰国するが、梅子は日本語を忘れており、苦労する。
  • 帰国後の母との会話は、父・仙の通訳によって行われていた。
  • その後、日本語の習得に苦労し、生涯を通じて、外国人風の発音だった。
  • 梅子の思考においては、英語で行われ、一緒にアメリカへ留学していた、山川捨松と永井繁子との会話は、英語で行っていた
  • 勤めていた華族女学校校長が、同校教授としての給料を受けながらのアメリカ留学を許可し、実現した。
  • 2度目の留学は、当時は進化論におけるネオ・ラマルキズム(ダーウィンの説に批判的な説)が反響を呼んでいたため、生物学を専攻した。
  • 論文にまとめられた梅子の研究は、イギリスの学術誌に掲載され、欧米の学術誌に掲載された初の日本人女性となる
  • 生涯5度の海外渡航をし、アメリカではヘレンケラー、イギリスではナイチンゲールに会っている。
  • アメリカ生活が長かったが、教壇に立つときは、袴を着用していた。
  • 留学中に知り合った、モリス夫人が梅子の志に共感し、寄付金を集めて日本に送り続けてもらう。
    その寄付金で学校の設立・運営・拡張を行った。
  • 質素倹約をし、集めた寄付金はすべて学校のためにささげた。

 

 

 

明治という時代に、長年アメリカで学び、女子教育に大いに貢献していますね。とても先進的な人だったんですね~

津田梅子が残した功績

では、津田梅子は現代にどのような功績を残したのでしょう?

  1. 津田塾大学の礎、「女子英学校」を設立、日本初の女子大学の基盤を築きました。
  2. それまでの良妻賢母の枠を超えて、教養豊かな女性の育成を目指しました。
  3. 女性の教育や社会での活動範囲は限定されていた時代に、女性が息苦しさを感じている社会に、風穴をあけようと、尽力しました。
  4. 英語教育を重視し、他の女学校の創設者など、女子教育の発展に貢献する人材を多く輩出した。
  5. 女性の地位向上こそが日本の発展につながると信じ、女性の高等教育に生涯を尽くしました
  6. 2回目のアメリカ留学時には、留学奨学金制度を作り、この奨学金によって留学した多くの女性が、日本における女子教育の指導者となっています。

 

女性の地位向上のために、たくさんの功績があったのですね

津田梅子の家族は?家系図に見る梅子の血筋

では、津田梅子はどのような家族構成だったのかみてみましょう

津田梅子の家系図

①生 家 

梅子は江戸・牛込南御徒町(現・東京都新宿区南町)で、津田家の次女として、生まれる。
母親の津田初子も、津田家の次女として、同所の生まれる。
祖父の津田大太郎は幕臣で、小島家(下総佐倉藩上仕)の三男だった父親の仙が、津田家に婿入りする。
②家 族
・津田仙ー江戸幕府・外国奉行支配通弁。明治維新後、「ホテル館」(外国人旅行者向けのホテル)に勤務。
・津田初子=幕臣・津田大丈郎とふくの次女。青山女学院創設に夫婦で貢献した。洗礼を受け、メソジストの信者となる。
・津田琴子=仙・初子の長女。最初、仙は琴子に留学を勧めたが、断った。
兄弟

  • 八朔
  • 次郎
  • 金吾(早世)
  • 銀吾(早世・金吾と双子)
  • ふき子
  • まり子
  • よな子
  • きよ子(早世)
  • とみ子
叔母・津田竹子=田安徳川家に仕え、田安慶頼の側室となり、徳川家達(徳川宗家第16代当主)の母となっている。
従兄弟・徳川家達=徳川宗家第16代当主、政治家
養子(甥)・津田眞=梅子の弟・純の四男
・津田あい子
孫の婿・西郷隆晄。西郷隆盛の曾孫
曾孫・西郷隆直

 

③家系図に見る梅子の血筋

父・津田仙

  • 佐倉藩藩校で、オランダ語、英語、洋学、砲術をまなび、外国奉行の通訳、幕府の使節団の通訳として、アメリカに随行する。
  • 明治維新後、ウイーン万博に随行した際に農業を学び、1876年、学農社を設立する。
    学農社とは…農産物の栽培・販売・輸入・農産についての書籍・雑誌の出版などをを行う。日本初となる通信販売(トウモロコシの種)を行う。
  • また、青山学院大学、筑波大学付属盲学校、普連土女学校の創設にもかかわる。

母・津田初子

  • 琴・三味線などのが堪能で、梅子が踊りを習っていたのも、母の影響がある。
  • 青山学院の開設の際には、仙とともに貢献する。

妹・なよ子

  • アメリカに移住し、日本語新聞「日米新聞」を発行する。

 

お父さんが、英語を学ばれたことが、梅子のアメリカ留学のきっかけだったのですね~。

津田家の子孫たち・現在の津田家の状況

では、梅子たちの子孫は、現在どうしているのでしょう?

梅子は生涯にわたり、独身だったので、実子はいません。

しかし、晩年には、甥にあたる津田眞(弟・純の子ども)と養子縁組をしています。
津田眞の娘・あい子と、西郷隆盛のひ孫・西郷隆晄の次男として、1976年に生まれた西郷隆直が、祖父・津田眞と養子縁組をします。
そして、津田家の当主となり、津田直と改名し、津田家を継承します
2019年、令和に改元に合わせ、再び西郷家に復帰、津田家当主を子どもに譲っています
現在、津田直さんは「西郷隆直」に復帰していますが、写真家・「津田直」として活動されています。

梅子と西郷隆盛は親戚になるんですね!!

 津田梅子の家系・人物のまとめ

女性の地位向上のために、生涯を女子教育に捧げた、津田梅子。
梅子は、洋風学を学び、海外渡航の経験があり先進的な考えを持つ、父・仙により、6歳で11年間のアメリカ留学をします。

官費で留学していた梅子は、教養豊かな女性の育成を目指し、学校の設立を実現させるために、奔走します

学校が設立されてからも、教育者として、質の高い授業を行っていました。

海外からの支援も募り、津田塾の多くの卒業生大学の後継者や他の女学校の創設者など、女子教育の発展に貢献する人材を多く輩出していきました。

教育者としても質の高い授業を行い、完璧を求める厳格な指導だったようですが、背後には生徒に対する深い愛情を持って、接していたようです。

このような思いは、父親の先進的な考えにより、アメリカ留学へ行き、英語や生物、教育を学んできたことが、大きなきっかけでした。

そして、末裔をたどると、西郷隆盛の末裔と繋がっていて、親戚だったことも判明しました。

女性の地位向上のために、大きな決断ですね~

 

今回は、津田塾大学を設立し、女性の教育の礎を築いた、津田梅子の功績や家族、エピソードなどをピックアップしました。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました\(^o^)/

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました