好きな歴史上ランキングでも常に上位を維持し、江戸城無血開城に尽力したことで有名な勝海舟。
彼を語る上で欠かせないのは、動乱の幕末から明治へと続く激動の時代を生き抜き、日本の近代化に大きく貢献したという事実です。
今回は、勝海舟の生涯と彼がどんな功績を残してきたのか詳しく解説していきますね。
是非、最後まで読んで見てください。
\\この記事でわかること//
・勝海舟のエピソード
・勝海舟の家系図
勝海舟の基本データ
勝海舟ってどんな人?
ジャンル | 日本の武士・政治家 |
出 身 | 江戸本所亀沢町(現・東京都墨田区両国) |
学 歴 | 10代の時、剣術や禅、蘭学を学ぶ |
生年月日 | 1823年3月12日 |
没年月日 | 1899年1月19日 |
死 没 | 75歳 |
主に、幕末から明治初期に活躍を残した人物です。
幼少期
- 1823年に、墨田区両国で生まれ、父は下級武士であった勝小吉。
- 父の影響もあり、海舟は幼少期より剣術に励むだけでなく、蘭学にも興味を抱き西洋の学問にも力を入れて取り組みます。
- 6歳の頃、親類の紹介で、11代将軍・家斉の孫・初之丞の遊び相手として、江戸城上がる。
アメリカ渡航
- 1850年、27歳で蘭学塾を開いた海舟は、幕府に「海防意見書」と呼ばれるものを提出したことで、31歳の時に目付海防掛に取り立てられます。
- 1870年、37歳の時には、幕府海軍の咸臨丸(かんりんまる)の艦長として、アメリカのサンフランシスコに向かいます。
江戸城無血開城
- 1868年、45歳の戊辰戦争の際には、軍事総裁として旧幕府を代表し率いていきます。
- ただ敗北がもはや決定的な状態の中、海舟は新政府軍のリーダでもある西郷隆盛と相談し、江戸城攻撃を中止するかわりに城を明け渡す約束をすることで、江戸城無血開城が決まります。
明治維新
- 明治の新政府では重要な役割を担いながらも、旧幕府の家臣の面倒も見ていました。
- 明治維新初期の頃には、新旧政権間の引き継ぎ業務や、廃藩置県への進言を行っていました。
- 1872年、海軍大埔に就任。3年ほど官職を務め、辞任。
- 1888年、憲法を扱う枢密院の顧問官に就任し、政府への意見助言に努めます。
- 日清戦争には、終始反対し平和主義の姿勢を貫く。
晩年
- 「海軍歴史」「陸軍歴史」など、執筆、口述、編纂の活動を行う。
- また、絵を描いたり、若者への教育などを行い庶民的な生活を送りました。
- 風呂上がりに脳溢血により、意識不明となる。
- 1899年、現在の東京都大田区南千束にある別荘にて、77歳の生涯を閉じる。
近代日本を作り上げた人ね
勝海舟が残した功績
どんな功績を残したのかな?
- アメリカ留学と西洋学問の吸収
- 江戸城無血開城
- 新政府軍への貢献と旧幕府軍の支援
・アメリカ留学と西洋学問の吸収
海舟は、1855年に幕府の命令で咸臨丸に乗り組み、アメリカのサンフランシスコに渡航します。留学で得た知見を活かし、日本の海軍力強化と洋楽の普及に励み、日本海軍の基礎を築きあげました。
また赤坂の私塾では蘭学と兵学を教え、洋楽の発展にも貢献しました。アメリカ留学で目の当たりにした文明の衝撃を受け、日本の開国と文明開化を推し進めることにも繋がりました。
・江戸城無血開城
戊辰戦争で幕府軍総裁を務めた海舟は、新政府軍との戦争に挑みます。
しかし敗北が決定的になる中、海舟は、早期の戦争停戦と江戸城の無血開城を成し遂げました。新政府軍の代表でもあった西郷隆盛との会談では、巧みな会話を通し和平に繋げました。
江戸城無血開城の成果は、計り知れず江戸の住民を守ったと言っても過言ではありません。
・新政府軍への貢献と旧幕府軍の支援
1872年、海軍大埔に就任し、1888年、枢密院(憲法を扱う)の顧問官に就任し、政府への意見助言などを行います。
一方、旧幕府軍の支援にも励み、旧幕臣のメンバーなどの凱旋を行います。
ずいぶん視野が広い人ですね~
勝海舟の家族構成は?
海舟の家族を見ていきましょう
①生家
- 幼名及び通称は、麟太郎
- 生家は、現・東京都墨田区両国にあった、父・小吉の実家の男谷家で生まれました。
- 現在、生誕の地には、碑が建てられ、彼の生涯や活躍を紹介する「勝海舟幕末絵巻」があります。
- 1823年に、旗本の子として生まれ幼少期は、決して裕福ではなく貧しかったと言われています。
父・小吉ー旗本でも下級であったことから、生活は厳しく武士としての地位も低いとされています。
母・信ー小吉の妻で海舟の母。貧しい家計を支えるために、裁縫や糸縫いなどを行う。
妹・順子ー17歳の時に佐久間象山と結婚。
妻・民子(正妻)ー妾とその子どもたちと同居してた。その子どもたちを分け隔てなく育てた。
子・妾が5人いて、その間には9人の子どもがいました。
内田夢、疋田孝子、小鹿(ころく)、四郎、梶梅太郎、目賀田逸子、八重、岡田七郎、妙子
②血筋
- 勝家は、山城国(京都府)出身とされ、江戸時代に徳川幕府の小普請(下級武士)として江戸に移住します。
- 決して家柄は高くありませんでした。
- 曾祖父は視覚障害を持ちながらも、鍼医、幕臣、大名貸などを行い、出世しました。
- 父の小吉は、豪放な性格で、喧嘩好きの破天荒な人物でした。喧嘩好きで破天荒な人物でもあったとされ自由奔放に生きていたそうです。
- 一方、自伝書「夢酔独言」で自身の人生を記述したりしていることからも、人格者としての一面もあり、後の海舟への性格にも遺伝したと考えられます。
- 母の信は、商家出身で貧しい家計を支えながら、子供の成長を支えました。また非常に肝の据わった女性でもありました。
③子孫
海舟の子孫は現在も続いており、その活動の中には親睦会などが運営されています。
名誉会長を務める勝康氏は、勝海舟の曾孫にあたります。
また、フリーライターの高山みな子さんは、「勝海舟フォーラム」など、各地で講演を行っています。
子孫たちは、今も親睦を深めているんですね
まとめ
勝海舟は、幕末から明治と動乱の時代を生き抜き、日本の近代化に大きく貢献した人物です。
戊辰戦争での江戸城無血開城や、明治政府での海軍創設など、日本の歴史に大きな足跡を残した勝海舟。その生涯は、まさに波乱に満ちたものでした。
彼を取り巻く環境を見ていくと、破天荒でありながら人格者としての父。そして肝の据わった母に育てられたことが大きいのではないでしょうか。
今回は日本の近代化に大きな影響を与え、幕末から明治を生き抜いた勝海舟の功績や家族、エピソードなどをピックアップしました。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
コメント