江戸時代の奇才と呼ばれ、エレキテルの復元の発明に始まり、本草学者・地質学者・蘭学・医者、作家にいたるまで、それはそれは多くの分野で活躍し、その類まれな才と発想を活かしてきた男の名は、平賀源内。
そのため彼は、日本の「レオナルド・ダヴィンチ」と称されることもあります。
今回は、平賀源内の生涯と、彼がどんな成績を残してきたのか、詳しく解説していきますね。
是非、最後まで読んで見て下さい。
\\この記事でわかること//
・平賀源内のエピソード
・平賀源内の家系図
平賀源内の基本データ
平賀源内はどんな人だったのかな?
ジャンル | 江戸時代の発明家・本草学者・地質学者・医者・浄瑠璃作家・蘭画家・俳人 |
出 身 | 讃岐国寒川郡志度浦(現・香川県さぬき市志度) |
墓 所 | 東京都台東区橋場二丁目 |
生年月日 | 1728年 |
没年月日 | 1780年1月24日 |
死 没 | 52歳 |
主に、江戸時代中期に活躍を残した人物です。
幼少期
- 1728年(享保13年)に、讃岐国(香川県高松市)で生まれる。
- 父は、当時の下級武士である白石茂左衛門で、母は山下氏。
- 幼いころから、その類まれな才能を発揮していました。
父の死・長崎での西洋文化との出会い
- 平賀源内が22歳のとき、父が死去します。
- 兄も早くに亡くしていたことから、父の跡を継ぎ高松藩の蔵番(米の貯蔵庫の管理)になります。
- そんな中でも才能豊かな源内の噂は絶えず、当時鎖国中であった日本で唯一、海外貿易が許されていた長崎の出島で、西洋の文化を目の当たりにします。
- その後、地元・高松に戻ると、高松藩へ辞職届を提出。
家督を譲り、江戸に向かうと、医者・本草学者「田村藍水」に弟子入りします。
小説家・発明家としての活躍
- 浄瑠璃(三美線を伴走とする語り物音楽の一種)の台本を執筆するなど、人気作家になります。
- また彼が現代で注目される要因にもなっている、「エレキテル」(摩擦で静電気を起こす機械)の発明をするなど、他分野で活躍を遂げます。
晩年
- ある時、大名屋敷の工事を、請け負うことになっていましたが、ある時の宴会のあと、酔いが回った源内は、設計図を盗まれたと勘違いし、大工たちを殺傷してしまう事件を起こします。
- 投獄されると破傷風を患い、52歳で亡くなります。
エピソード
- 12歳の時には、掛け軸に酒を供えると、掛け軸に描かれた天神様の顔がみるみると赤く染まるという細工を施して、周囲を驚かせました。
この仕掛けの掛け軸は、すぐにあちこちに広まり、「御神酒天神」と呼ばれるようにもなります。 - そんな多才な源内、エレキテルを作った当時はとても騒がれていましたが、電気を起こすだけで、使い道は「0」と当時は言われていたそうです。
- 才能をこれでもかと発揮する源内は、本草学(薬、動植物を研究する学問)や儒学、オランダ語や油絵、俳句、鉱山の採掘や精錬技術を学んで行きます。
- これらの才能は、江戸幕府の老中・田沼意次の耳にも入るようになります。
- しかし、様々なことに手を出している中、未完成の研究や創作物が多かったともされており「中途半端な男」といったレッテルを張られていたそうです、、、、。
- また源内は、「土用の丑の日」を生んだとも言われています。
もともと、土用の丑の日には「う」もつくものを食べる風習があり、源内が「ウナギを食べれば夏バテしない」と言ったことにより広まったと、言われています。(諸説あり)
発明だけでなく、芸術方面の才能もあったのね
平賀源内が残した功績
さまざまな才能を発揮したけど、どんな功績を残したのかな?
・科学技術の発展と貢献
- 鎖国下の日本で、西洋の技術を学び、それらを取り入れます。
- 後に、エレキテル(摩擦で静電気を起こす機会)を修復し発明するだけでなく、「日本創製寒熱昇降機」という温度計を制作するなど科学技術の発展に大きな貢献をしました。
・小説家として数多くのヒット作の生み出し
- 戯作や浄瑠璃などのヒット作を生み出すだけでなく、源内の作品は発想力が豊かで文体が特徴的でもあり、新しい風を吹かせます。
- 露骨なエロティシズムを出した「長枕褥合戦」を書いたり、義太夫浄瑠璃では「神霊矢口渡」や「源氏大草紙」などの作品を出すなど、江戸時代の文芸に、多大なる影響を与えるだけでなく、後世にも受けつがれていきました。
・本草家や画家としての活躍
- 本草学とは、中国古来の植物を中心とする薬物学、現在の薬学、博物学とも言われています。
- 源内は薬品会を催したり、宝暦12年(1762年)には、日本国内では初となる、全国規模での東都薬品会(物産博覧会)を開催します。
- また宝暦14年(1764年)には、秩父山中で石綿の発見や、「火浣布略説」を刊行するなど、医学への進展にも貢献する。
- 画家として、主に西洋画で描かれた絵画や、「黒奴を伴う赤服蘭人図」「西洋婦人図」なども描き画家としても活躍を遂げます。
平賀源内の家族構成は?
-
どんな家族がいたのかな?
①生家
- 1728年(享保13年)讃岐国(香川県高松市)生まれ。
- 源内は、9人兄弟でしたが、他の兄弟についての情報はあまり残っていません。
- 父が早々に亡くなったこともあり家督を継ぐことになります。
父:白石茂左衛門ー讃岐高松藩(現・香川県)の足軽身分の家です。
母:山下氏の娘ー詳しい情報が出ていない為詳細は不明ですが、名前も伝わっていないようです。
兄弟:9人兄弟の三男として生まれますが、兄を早々に亡くし他の兄弟の情報も不明となっています。
唯一名前が明らかになっている妹の名は、里与です。
②血筋
源内が生まれた白石家は、元々は信濃国(長野県)佐久郡の豪族でしたが、1536年(天文5年)に甲斐の武田信玄による信仰を受け、一度は滅ぼされてしまいました。
しかし、生き残った平賀氏が、奥州(岩手県)の白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めたのち、伊予宇和島藩に下り、讃岐に帰還した。
平賀源内の子孫と現在
平賀源内は、生涯独身で子供もいません。
- 結婚しなかったのには忙しかった、自身のやりたいことがあったというのが理由かもしれません。
- 一方、こんな理由もあるとされています。
それは、平賀源内がゲイであったということです。
友人である杉田玄白(蘭学者)に、妻を娶って家族を持つことを進められるも、「四海皆女房なりと悟れば寝覚めも淋しからず」(※)などと言って、煙に巻いたそうです。 - その背景には、美少年、美男子が好きだったのではということです。
自身で「男色細見」という詳細な陰問茶屋(男娘がいるお店)ガイドブックを著している程なのです。
もしかしたら、本当に女性に興味がなかったのかもしれません。
※四海皆女房なり…とは、論語に出てくる故事成語の「四海のうち、皆兄弟なり」をアレンジしたようで、真心と礼儀を尽くしていると、世の中の人みんな仲良くなれるという意味。
そんな平賀源内の子孫は途絶えてしまいましたが、なんと現在も平賀家の血筋は続いています。
それは妹の里与の系譜です。
- 平賀源内が、高松藩を辞職後に家督を継いだ里与夫妻は、子孫を残し、現在は7代目まで続いています。
- 現当主は、七代目・平賀一善さんで、平賀源内の出身地である香川県でのイベントに出席などされているようです。
直系ではないけど、子孫の方がいらっしゃるのですね
まとめ
平賀源内は、その多才な芸を活かして多くの成果を出してきたことから「江戸のレオナルド・ダヴィンチ」と称されるほどの人物です。
そんな彼は、エレキテル(摩擦によって静電気を発生)の復元をはじめとした発明や、温度計の制作、作家、本草学者、蘭学、医者など多くの分野で活躍します。
しかし、彼を取り巻く環境や、兄弟はどのような人たちだったのか、まだまだ謎が深い人物でもあり、これから新たな情報が出てくることはあるのでしょうか。
今回は、江戸時代の科学技術の発展や西洋の文化、芸術などで大きな影響を与え、その多才ぶりから「江戸のレオナルド・ダヴィンチ」と称される平賀源内の功績や家族、エピソードなどをピックアップしました。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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