ヘレン・ケラーは、幼いころの病気の影響で、聴覚と視覚を失いながらも、世界各地を訪れ、障がい者の教育・福祉の発展に尽くした人です。
人とコミュニケーションを取る手段や、社会を学ぶことがないまま、生後19か月で、重い病気で視力と聴力を失ったヘレン。
しかし、家族の支えと、家庭教師のサリバン先生と出会いで、人生が大きく変わりました。
そんなヘレンが、どのようにして、多くの功績を残し今も語り継がれるのか、家族背景や育った環境について調べてみました。
\\この記事でわかること//
・ヘレン・ケラーの家系図と家族背景
・ヘレン・ケラーの功績
ヘレンケラーってどんな人だったの?
ジャンル | アメリカの作家、講演家、障害者権利の擁護者 |
出 身 | アメリカ・アラバマ州タスカンビア |
学 歴 | ラドクリフ・カレッジ(現・ハーバード大学) |
生年月日 | 1880年6月27日 |
没年月日 | 1929年6月1日 |
死 没 | 87歳 |
幼少期
- 1882年、1歳半の時に、高熱に伴う髄膜炎にかかり、一命は取り留めたが、視力と聴力を失い、話すこともできなくなった。
- そのため、両親からしつけを受けることのできない状態になり、わがままに育った。
- ケラーが7歳の時に両親は、聴覚障害児の研究をしていたグラハム・ベル(電話の発明)を訪ね、パーキンス盲学校の校長先生に手紙を送り、家庭教師の派遣を頼む。
- 同校の卒業生で、優秀な成績を収めていた、アン・サリバンを派遣される。
- ヘレンはサリバンから厳しくしつけられ、指文字・言葉を教わる。
学生時代
- 1888年(7歳)でパーキンス盲学校に通学、1894年(13歳)でライト・ヒューマンソン聾学校に入学する。
- 1896年(15歳)ケンブリッジ女学院に入学したが、サリバンと校長が教育方針を巡って対立したため、翌年には退学する。
- もう一人の家庭教師のキースに勉強を手伝ってもらい、1900年(19歳)ラドクリフ・カレッジ(現・ハーバード大学)に入学する。
- 1902年(21歳)、自伝「わたしの生涯」を執筆し、新聞掲載を経て、出版される。
- 1904年(23歳)、ラドクリフ・カレッジを卒業。
- 1909年(28歳)、アメリカ社会党に入党し、婦人賛成運動、産児制限運動、公民権運動など、多くの政治的・人道的な抗議運動に参加、著作家としても活動する。
- その他、世界産業労働組合の活動、ロシア革命の擁護、また、世界各国で、講演活動・福祉活動を行う。
- 1924年(44歳)から1968年(87歳)まで、アメリカ盲人財団に勤め、この間、アメリカでの講演、世界35か国(ヨーロッパ、アフリカ、日本、中東、北欧など)へ旅をして、視覚障害者を支持した。
晩年
- 1964年(77歳)アメリカ政府から、大統領自由勲章が贈られる。
- 1961年(80歳)、軽い脳卒中になり、1968年6月1日(87歳)、老衰のため、コネチカット州イーストンの自宅で死去した。
- 日本からは、勲三等瑞宝章、死後に勲一等瑞宝章が贈られた。
- 聴力・視力を失いながらも、父親を表すためにメガネをかけるまねをし、母親を表すために頭の後ろで髪を結うまねをしていた。
- 5歳までに、約60個の「身振りによる言語」を持っていた。
- 5歳の時に、鍵が何のためにあるのかを理解し、あるとき、母親を食糧庫に3時間も閉じ込めた。
- サリバンはヘレンに、物の名前を教えるが、人形を触らせ、指文字で「DOLL」と示すが、ヘレンは理解しなかった。
そこで、庭の井戸に連れて行ったサリバンは、カップと水、それぞれを指文字で示したことで、「言葉」の存在を知る。 - 津田塾大学の創設者で、新五千円札の肖像画にもなった、津田梅子とは、1898年(津田梅子35歳、ヘレン17歳)に梅子がアメリカコロラド州に訪れた際、会談している。
- 日本には、1937年・1948年・1955年の3度、訪日する。
- ヘレンの妹の孫によれば、発声は、訓練を重ね、抑揚はないものの、話すことはできたという。
- ヘレンの秘書をしていた、ピーター・フェイガンと婚約までしたが、家族に反対され、破談となった。
ヘレン・ケラーの家族は?
では、ヘレンケラーはどのような家族構成だったのかみてみましょう
ヘレンケラーの家系図
①生 家
アイビーグリーンと名付けられた、640エーカー(約260万㎡・東京ドーム約55個分)敷地に、母屋とヘレンがサリバン先生と学んだ小屋があります。
母屋は、1820年にヘレンの祖父母が建てたものです。
ヘレンはそこで、父・アーサー・ケラーと母・ケイトの間に、第一子として、誕生しました。
母・ケイト・アダムス・ケラー=アサーより20歳年下。父(ヘレンの祖父)は南軍の准将。
妹・ミルドレッド・アダムス・ケラー=6歳下。同母姉妹。
弟・フィリップ・アダムス・ケラー=同母兄弟。
ある時、ヘレンが大切にしている人形のゆりかごに、ミルドレッドが寝ていた時、ヘレンは嫉妬のあまり、そのゆりかごをひっくり返しまいます。
しかし、サリバン先生の助けによって、人間性を持つようになったヘレンとミルドレッドは生涯を通じ、「無二の友」となる。
とても裕福な家庭に、生まれたんですね。
ヘレンケラー・家族の支援
家族は、ヘレンをどのように支えたのでしょうか?
恵まれた家庭で快活に育ったヘレン。高熱に見舞われたのは、生後19か月の時でした。
医師の懸命な治療で、一命は取り留めましたが、次第に視力と聴力を失っていきます。
両親は、ヘレンをたくさんの眼科医の診察を受けましたが、どの医師からも「視力は回復しないだろう」と言われてしまいます。
父・アーサーは諦めず、アメリカ東部のボルティモアの眼科を訪ねた時、アレクサンダー・グラハム・ベル博士(電話の発明家)に会います。
母と妻が難聴者で、聾学校を設立していたベルは、ヘレンに、家庭教師を紹介します。
ヘレンのために選んだのは、当時21歳のアン・サリバンでした。
サリバンは、9歳の時に自身の母親を亡くし、父はアルコール中毒だったため、孤児院で育ちました。
サリバンも5歳の時にトラコーマ(結膜の炎症)にかかり、ほとんど目は見えておらず、まともな教育受けていませんでした。
しかし、マサチューセッツ州パーキンス盲学校に入学し、目の手術を受けてからは視力を回復させ、首席で卒業しています。
両親は、そんなサリバンの生い立ち(孤児院で育った移民の娘)が気がかりでしたが、サリバンの素晴らしい能力に惹かれたことと、ヘレンに早く家庭教師をつけなければという一心で、「家族同様に扱い、月給25ドル」という好条件で、サリバンを雇うことにしました。
両親は、痛ましいほどのハンディを持った娘をどのように扱えばいいのか全くわからず、ヘレンには、しつけをしてきませんでした。
そのため、ヘレンは何事も自分の思い通りにし、思い通りにならなければ癇癪を起していました。
ヘレンが風呂に入ることを抵抗すれば、髪もぼさぼさで体は汚れたまま、家族の食事を手づかみで勝手に取ることも許していました。
サリバンは、ヘレンには「従順と愛」が必要と考え、厳格で献身的な教育を行いますが、父・アーサーは娘が癇癪を起し、泣き叫ぶことに耐えられず、あまりの厳格な教育に、サリバンを辞めさせることを考えます。
しかし、サリバンに一任することで、ヘレンは少しずつ変化をみせ、才能を開花させていくと、当時の女子教育の名門・ラドクリフ・カレッジ(現・ハーバード大学)に入学するまでに成長します。
そして、数々の功績を残すまでになりました。
ヘレン・ケラーが残した功績
では、ヘレン・ケラーはどのような功績を残したのでしょう?
- 障害者の教育・福祉の発展に尽力する。
アメリカ盲人財団で活動し、国内外で講演を行いながら、40か国を訪問し、障害者の教育と福祉の発展に貢献した。 - 女性の参政権や労働者の権利、黒人への人種差別に反対するなど、政治活動も行う。
これらは、ヘレンが障害者の枠を超え、広範な社会正義を追及する存在として、高く評価される。 - ヘレンの生涯は、多くの劇や映画、自伝などで広く知れ渡り、障害者に希望を与えた。
- ヘレンの生家は、アメリカ国定歴史的建造物に指定され、博物館となっている。
ヘレンの死後も、障害者や社会的弱者に対し、夢や希望を与える象徴的存在となった。 - 特別支援教育の重要性が認知され、点字や手話などのコミュニケーション方法が普及・改良された。
- 障害者権利運動や、バリアフリー社会の実現に向けた取り組みの基盤となっている。
ヘレン・ケラーの家族・人物のまとめ
19か月という幼いころに視覚と聴力を一度に失った、ヘレンケラー。
暗闇の中をさまよい、苦しむヘレンも、彼女を支える家族も、どれほどの苦しみを味わったことでしょうか?
想像を絶しますね。
しかし両親も、少しでもヘレンの人生に光を与えるために、奔走します。
そんな中、アン・サリバンと出会い、ヘレンの教育を一任します。
サリバンの厳しいしつけは、両親にとっては胸が張り裂ける思いだったことでしょう。
ヘレン本人だけではなく、家族やサリバンによる、決死の努力でヘレンは、才能を開花し、数々の功績を残しました。
その功績は、ヘレン亡きあと、現代にも息づいていますね。
ヘレンの功績も、家族の努力があったのですね~
今回は、奇跡の人と呼ばれ、その生涯を障害者の教育や福祉の発展に尽力したヘレン・ケラーと彼女を支えた家族について、ピックアップしました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました\(^o^)/
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